雲一つも無い寒空には白銀の星が瞬き、晩秋の空には冬の大三角が輝いていた。
だが月の姿はそこには無い。『ナハトの因子は至る場所に溢れているが怨嗟の強い場所はより集まる。この森一体は、この国で最も多くの因子が集まっている』 七年も昔、クレプシドラの残滓が語った言葉をケルンは反芻した。 二百年前の宗教戦争での虐殺、近代まで頻繁に行われていた精霊還し、そして孤児院の火災が加算され……怨嗟が怨嗟を呼んだかのよう、まさにこの森はナハトの撒き散らす闇の因子が癒着するに持って来いな最悪な舞台となった。「そういえば、ケルン。貴方は闇の因子を打ち砕くのが責務だっていうけど……そもそも闇の因子って減らせるものなの?」カンテラを持ち、隣を歩むキルシュは訊く。ケルンは腕を組んで眉を寄せた。
「削る事はできるさ。ただ、果てしないってだけだ。痛みの森はツァール屈指の憎悪と嘆きの詰め合わせみたいなものだから、闇の因子が集まりやすい。まず因子ってものは根本的に、人間の発した悪しき感情が元になる」
それは生きた人間も死んだ人間も同様だ。とケルンが答えると、キルシュはピタリと立ち止まった。
「そんなの、いつまで経っても終わりが見えないじゃない」
……恨みも嘆きも人であれば当たり前の感情。理不尽な目にあって、それを抱かぬ者などいない。キルシュはそう付け添えた。
尤もな事だった。そう、終わりなんて無いのだ。ケルンは、困った顔で立ち止まったキルシュを見る。「そうかもな。でもな、野放しにする訳にいかないんだ。それよりキルシュ、怖くないのか?」 もう間もなく歩めば、狂信者たちの歩み回る針葉樹林に入る。 既に嘆きにも似た不気味な咆哮が聞こえている。カンテラを持つキルシュの手は震えていて、よく見れば脚も戦慄いていた。「考えあって付いてきているのは分かるが、こんなのわざわざ付いてくる必要なんてない。教会まで送るぞ……」
<──静謐に包まれた真夜中の森に二匹の狂信者の不気味な咆哮がこだまする。 それに答えるかのように、次々に身の毛もよだつ程に叫びが上がり、まるで悲壮の歌のように森の深層に響き渡っていた。 やがて、凍てつく程に冷たい風と共に一体二体とその数は増え、キルシュとケルンの目の前には数十体の狂信者の群れがぞろぞろと集まって来た。 男か女かも分からない、低くもか細い声で『憎い憎い』と彼らは繰り返す。 ケルンは緊張した面輪で手を下ろして、防壁を消す。だが、彼らは二人に襲いかかって来る事も無かった。 あの叫びで話を通してくれたのだろうか。キルシュは集まった狂信者たちの前に一歩み、スカートの裾を摘まむと膝を折って淑女の一礼を再びした。「**突然だったのに、集まってくれてありがとう。全員いるかしら? お願い、私たちについて来て欲しいの。その前に約束をしたいわ**」 ──私は彼に力は使わせないように監視する。もし、彼が先にあなたたちを攻撃したら、私を食べて構わない。ただし、あなたたちが約束を破れば、今まで通り。 それを約束する。不満は無いかと、キルシュは言葉も添えたが、彼らは何も言わず それぞれが静かに頷いた。 「**じゃあ、みんなで一緒に教会まで向かいましょう。絶対に私と彼を見失わないで、ちゃんと付いてきてね。どうか私たちを信じて欲しいの**」 願うように、祈るように。キルシュは狂信者たちに朗らかに告げて背を向ける。「ケルン行こう」 傍らに立つ彼を一瞥して、キルシュはゆったりと真夜中の森を歩み始めた。 ──寒々しい晩秋の木枯らしが吹き抜ける森。 その中を、一つの群れが列をなして進んでいた。 先頭に立つのは、人間の少女と、青年の姿をした機械人形の二人。 そのすぐ後ろからは、異形の怪物――狂信者たちが、ぞろぞろと行進するように後に続いている。 キルシュは民族衣装の上にウールのケープを羽織っていたが、それでも身を刺すような寒気を覚えていた。けれど、それは気温のせい
まるで世の深淵のよう──。 闇に包まれた針葉樹の森の彼方から、不気味な嘆き声が響いてきた。 一度しか対面していないが、それが狂信者たちの声である事は、キルシュにはすぐに分かった。 聞こえてくるのは、複数の声だ。何かを嘆くように、しかし不協和音のように響くその声は、少しずつこちらに近づいてくる。 キルシュは思わず、ケルンのジレの裾をきゅっと掴んだ。「怖いよな? ここから先は、絶対に俺から離れるなよ」「分かった。でも暗闇はもう慣れたよ、大丈夫」 ──怖いに決まっているじゃない。 心の中でそう呟きながらも、キルシュは彼を安心させる為に、嘘の笑みを唇に乗せた。 けれどもう、後には引けなかった。ようやく自分の中の秘めた可能性に気づいたのだ。そして、それが彼の果てしない責務を、ほんの少しでも軽くできるかもしれない──そう思ったから。 二、三歩進んだ、そのすぐ後──風がゴウ、と鳴り響いた。 その瞬間、ケルンは両手を広げると、たちまち金の光が空間に幾何学模様を描き、半球状の防壁を展開される。 「お出ましだ。数は二体。近くにも、恐らく他にも四体くらいは潜んでいるな」 防壁を隔ててすぐ目と鼻の先。そこには、あの時と同じ奇怪な怪物が二体、涎を垂らして唸り声を上げていた。 大きな緑の瞳をギョロギョロと動かして、狂信者は、憎い憎いとあの日と同じ言葉を反復する。 目の当たりにしたのは二度目だ。たとえ元が人であると分かっても、やはり恐ろしいと思ってしまった。 だが、これが憎悪と無念の成れの果て。闇の因子で具象された姿。そう思うと、哀れみばかりが湧き立った。 キルシュはケルンのジレの裾を掴んでいた手を離し、二体の狂信者をじっと見つめた途端だった。 ──ごめんなさい。もう許して! 痛い、痛い! ──嫌ぁああ! 死なないで! ──母さん助けて! 死にたくない! 憎悪の奥で、僅かに聞き取れる人の声がした。それも酷い悲鳴ばかり。途方もない恐怖の瞬間ばかりが耐えずに響いている
雲一つも無い寒空には白銀の星が瞬き、晩秋の空には冬の大三角が輝いていた。 だが月の姿はそこには無い。 『ナハトの因子は至る場所に溢れているが怨嗟の強い場所はより集まる。この森一体は、この国で最も多くの因子が集まっている』 七年も昔、クレプシドラの残滓が語った言葉をケルンは反芻した。 二百年前の宗教戦争での虐殺、近代まで頻繁に行われていた精霊還し、そして孤児院の火災が加算され……怨嗟が怨嗟を呼んだかのよう、まさにこの森はナハトの撒き散らす闇の因子が癒着するに持って来いな最悪な舞台となった。 「そういえば、ケルン。貴方は闇の因子を打ち砕くのが責務だっていうけど……そもそも闇の因子って減らせるものなの?」 カンテラを持ち、隣を歩むキルシュは訊く。ケルンは腕を組んで眉を寄せた。「削る事はできるさ。ただ、果てしないってだけだ。痛みの森はツァール屈指の憎悪と嘆きの詰め合わせみたいなものだから、闇の因子が集まりやすい。まず因子ってものは根本的に、人間の発した悪しき感情が元になる」 それは生きた人間も死んだ人間も同様だ。とケルンが答えると、キルシュはピタリと立ち止まった。「そんなの、いつまで経っても終わりが見えないじゃない」 ……恨みも嘆きも人であれば当たり前の感情。理不尽な目にあって、それを抱かぬ者などいない。キルシュはそう付け添えた。 尤もな事だった。そう、終わりなんて無いのだ。ケルンは、困った顔で立ち止まったキルシュを見る。 「そうかもな。でもな、野放しにする訳にいかないんだ。それよりキルシュ、怖くないのか?」 もう間もなく歩めば、狂信者たちの歩み回る針葉樹林に入る。 既に嘆きにも似た不気味な咆哮が聞こえている。カンテラを持つキルシュの手は震えていて、よく見れば脚も戦慄いていた。「考えあって付いてきているのは分かるが、こんなのわざわざ付いてくる必要なんてない。教会まで送るぞ……」
──いずれ自分が消えるか、彼女が消えるかどちらかの運命を辿る事になる。 その啓示を知り、あの日から七年の月日を経たが、分岐は変われど結末だけはいつまでも改変されなかった。 そもそも「約」という言葉が付く以上、啓示は随分と適当で。細やかな算出は不可能なので悩ましい。 ケルンは伏せていた瞼をゆっくりと持ち上げた。「希望ある未来」 言葉を呟いたと同時に胸に突っかかったのは、ファオルに叱責された事だった。 ──記憶喪失のキルシュは確実に幼き日のケルンを思い出している。無論、それはケルン当人としてみれば嬉しかった。 死して尚も抱き続けた思いが実ったのは素直に嬉しかった。けれど、どう足掻こうが自分が〝死人〟という事実は変わらないのだ。 これは当然、キルシュも知らない事。だからこそ〝本当の気持ち〟は押さえるべきだっただろうと彼自身も思っていた。 勿論、その日が来た時、初めこそは冷淡に……それこそ機械的に振る舞う事さえ考えていた。全てを理解しているケルン自身がそれを一番解ってはいたのに、伝えずにはいれなかったのだ。 邂逅したあの夜、名を呼ばれたからだろうか。子どもの頃と変わらない、目を丸くして照れた面輪や半眼になってふて腐れた顔を見てしまったからだろうか。 離れ離れになった七年で、キルシュがあまりに可憐に育ってしまった事にケルンはひと目見た瞬時に誤作動してしまった。 そう。七年越しの再会を果たした彼女は、ケルンの想像を超える程だった……愛らしさはそのままに可憐さが増していたのだから。 そして、心を通わせれば愛せずにはいられなかった。自分を受け入れてくれた事もあるが、その心は素直なまま。心優しく、純粋だったから。 窮地で彼女の心を喰った時、ジャムを食べているのを見られたあの晩の時点で、様々な感情が暴発しそうになった。 こうなったのは、間違いなく〝不完全〟が災いする。人として死んだにも関わらず、この身も心も大人に成熟してしまったのだから。そのせいで、
どういう事だ。だが、確かに帝国兵に連れ去られたのを見た。 そうだ。彼女だけは生きているのだ。だが、この孤児院を燃やした連中が拉致したのだから、ただで済む訳が無いだろう。ならば早く助けなければ。ケルンは立とうとするが、すぐにクレプシドラに制された。 『ケルン、今で無い。あの力を持つ能有りは、二百年以上の単位で生まれない。あの娘は類い希なる力を持つ〝聖女の器〟だ。あの連中は、ナハトの導きのもと動いている。そしてあの娘を奪うのは成功しても、ナハトはおまえを取り込むのに失敗して去った』 未来が改変されたのだと。クレプシドラは静かに付け添える。 だが、キルシュの力と言えば、植物を芽吹かせる美しいものだ。いかにも無害で、ただ華やかなだけ。 「キルシュの力が、どうして……」『あれは生命を芽吹かせる唯一の力だ。逆も然り、枯死も同時に司る。あの力は、生命そのものを象徴する』 だからこそ、あの娘が目的でこうなったのだと。恐らく熱心な邪教崇拝者たちはあの娘を神堕ろしの贄か、新たな邪神へ仕立てる為に使うのだろうと……。 クレプシドラの語る言葉にケルンは、事の輪郭を掴んだ。『だから改めて言う。ケルンお願いだ、我が使徒となり生きて欲しい。死んだ人間を使徒にするなど極めて変則的。だが、おまえの光は、闇に打ち勝つに適した力だ。ナハトの因子は至る場所に溢れているが怨嗟の強い場所はより集まる。この森一体は、この国で最も多くの因子が集まっている』 顔も無いクレプシドラの向いた先は、協会の奥に広がる黒々と広がる痛みの森だった。憎き能有りを消す精霊還しの地。その他に心霊話があまりに多い。憎悪に引き寄せられるなら、ここは存分に集まりそうだなとケルンは納得する。『少しでもナハトの因子を削って欲しい。ケルン、おまえが希望なんだ』 そう伝える声は震え、今にも泣きそうなものだった。 しかし、ケルンの脳裏に一つの疑問符が浮かんだ。 姿さえ保てなくなったクレプシドラは、未来で信仰を取り戻したいのだろうか。それで都合良く使おうというのは、邪神ナハト
それから間もなく、初雪が降り始めた。 燃え盛る炎は、次第に穏やかなものとなり、木造建築の教会は煤けた墨の骨組みと化し橙の炎を揺らしていた。『ケルン。我はおまえに頼みがあって介入した。一つの希望を信じたい。我が使徒として生きてはくれぬか』 厳かに言う小さな影は、転がり落ちたケルンへの供物……名を刻印された金時計を拾い上げ、それを金に輝く光の粒子へと変えると、ケルンの胸の中に押し込むように埋め込んだ。 その光は、黒潰しの怪物から喉から注ぎ込まれたものとは違い温かだった。全身から金の光が溢れて、まるで抱擁されるような安息感に包まれる。 まるで鼓動のよう。カチカチと規則正しい秒針の音の響き始めた最中──ケルンはこの金時計を送った人間の顔を、声を、思いを……そして自分自身を知る事になった。「お母様にはできないわ。ごめんなさい、許して、ケルン」 額にキスをするのは、どこか少女の面影のあるような妙齢の女だった。 空のような青い瞳に溺れるように涙を溜め込んで、もう一度キスをする。「そろそろ参りましょう」 背後に控えていた女も瞳にたんまりと溜めて、悲しげな面輪で親子の離別を見つめていた。 ……ケルン・シュナイダー。 それが本名。能有り故に遺棄される筈だったツアール帝国の第一皇子。 供物の金時計に携わる記憶が全て、頭と心に流れ込んで来たのだ。どうせ〝ろくでもない生い立ちだろう〟とずっと思っていたが、皇族なんて誰が想像するものか。 生まれた時から忌まれ、嫌われて捨てられたと思っていたのに、母はこんなにも泣き、愛してくれただの思いもしなかった。 ケルンは瞳に涙を溜め「なんだよそれ」と小さく独りごちる。 久しく出した声は、蓄音機を隔てたようにくぐもっていた。しかし、そんな事も気にならない程に、涙は後から後へと伝い落ちる。 クレプシドラの残滓は膝をついて座り、ケルンを宥めるように頬に伝う大粒の涙を拭い、髪を優しく撫でた。 煩わしくて堪らない